2023年6月25日日曜日

判例紹介:退職時の秘密保持誓約(合意の拒否)

近年、従業員の退職時に秘密保持誓約書への合意(サイン)を求める場合が多くなっているようです。しかしながら、本ブログでも度々述べているように、営業秘密とする情報に対して秘密管理措置の実態が伴っていなければ、秘密保持誓約書をもって秘密管理性が認められる可能性は低いと思われます。また、退職者が秘密保持誓約書の合意を拒否したとしても、それは情報の秘密管理性とは関係がありません。

今回は、退職時に秘密保持誓約書の作成を退職者から拒否された裁判例(大阪地裁令和5年4月17日 事件番号:令3(ワ)11560号)を紹介します。
本事件は、被告P2が被告P1の指示の下、被告が原告の契約するクラウドに記録されていた営業秘密である取引先及び取引内容に係る情報(本件情報)を窃取して被告会社に開示した等を原告が主張した事件です。なお、被告P1,P2は共に元原告の従業員です。
被告P1,P2は、原告への入社時に秘密保持義務が記載された誓約書を締結した一方で、退職する際に誓約書を締結するよう原告から求められたものの拒絶しています。

なお、本件情報が記載されたファイルや書面には営業秘密である旨の表示がなく、ファイルにはパスワード等のアクセス制限措置が施されておらず、原告の全従業員がアクセス可能なクラウドに保存されていました。このような管理に対して裁判所は、適切に秘密として管理されていたとはいえず、また、秘密として管理されていると客観的に認識可能な状態にあったとはいえない、と裁判所は判断しています。


そして、入社時の誓約書を用いた秘密管理性の有無について、裁判所は以下のように判断しています。
❝③通信・運用管理規程や入社時の誓約書には、本件情報1及び2を営業秘密として管理する旨の記載はなく、他人の個人情報をみだりに開示しないことと他人の個人情報が原告の営業秘密であることとは関係がない。❞
さらに、退職時に要求した誓約書について、裁判所は以下のように判断しています。
❝④原告が被告P1及び被告P2の退職時に要求した誓約書は、原告の事業に関する価格、取引情報のみならず、商品、サービス、財務、人事等に関する広範な情報を秘密情報とし、理由の如何を問わず、自己又は第三者のために開示、使用することを無期限に禁じ、退職後、2年間もの間、競合企業への就職等を一切禁止する内容であり(甲37)、仮に合意されたとしても明らかに公序良俗に反し無効なものであり、被告P1及び被告P2がこれを拒否するのは当然であって、むしろ、原告において本件情報1及び2を適切に営業秘密として管理していなかったことを窺わせる事情といえる。❞
このように、誓約書に対しては、本件情報を営業秘密とすることを記載したものではなく、包括的なものであるとして、誓約書によっても本件情報の秘密管理性は認められないと判断しています。
特に、退職時に要求した誓約書に対する合意の拒絶が被告P1,P2にとって不利となるようなこともなく、裁判所は❝仮に合意されたとしても明らかに公序良俗に反し無効である❞とまで認定しています。

以上のように、情報に対する秘密管理措置の実態が伴っていなければ、従業員等との間で包括的な秘密保持誓約書等を締結していても、この誓約書には秘密管理措置としての意味はありません。また、秘密管理措置の実態がなければ秘密保持誓約書の合意を退職者が拒絶したとしても、それによって退職者が不利となることはないでしょう。

秘密保持誓約書のみならず就業規則等は、主に包括的な秘密保持義務を従業員等に課すものです。このため、それのみで秘密管理措置と認められる可能性は低く、裁判においてはあくまで秘密管理措置の主張を補強する程度のものと考えるべきでしょう。
なお、仮に秘密保持誓約書の合意を拒絶したとしても、営業秘密を不正に持ち出して使用等したら、それは営業秘密侵害となります。

弁理士による営業秘密関連情報の発信 

2023年6月19日月曜日

営業秘密侵害はどこから刑事的責任を負うのか。

前回のブログでは、営業秘密に関する民事的責任として、営業秘密を不正に持ち出しただけでは使用や開示を行わないと損害賠償責任は負わない可能性が高いものの、当該営業秘密の使用や開示をしてはならないという差止請求の対象になる可能性があることを書きました。

では、営業秘密に関する刑事的責任はどうでしょうか。民事的責任と同様に使用や開示を行わない限り責任は生じないのでしょうか。
ここで、には営業秘密の刑事的責任について規定されてる不正競争防止法第21条1項1号~4号は以下の通りです。
第二十一条 次の各号のいずれかに該当する者は、十年以下の懲役若しくは二千万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。
一 不正の利益を得る目的で、又はその営業秘密保有者に損害を加える目的で、詐欺等行為(人を欺き、人に暴行を加え、又は人を脅迫する行為をいう。次号において同じ。)又は管理侵害行為(財物の窃取、施設への侵入、不正アクセス行為(不正アクセス行為の禁止等に関する法律(平成十一年法律第百二十八号)第二条第四項に規定する不正アクセス行為をいう。)その他の営業秘密保有者の管理を害する行為をいう。次号において同じ。)により、営業秘密を取得した者
二 詐欺等行為又は管理侵害行為により取得した営業秘密を、不正の利益を得る目的で、又はその営業秘密保有者に損害を加える目的で、使用し、又は開示した者
三 営業秘密を営業秘密保有者から示された者であって、不正の利益を得る目的で、又はその営業秘密保有者に損害を加える目的で、その営業秘密の管理に係る任務に背き、次のいずれかに掲げる方法でその営業秘密を領得した者
イ 営業秘密記録媒体等(営業秘密が記載され、又は記録された文書、図画又は記録媒体をいう。以下この号において同じ。)又は営業秘密が化体された物件を横領すること。
ロ 営業秘密記録媒体等の記載若しくは記録について、又は営業秘密が化体された物件について、その複製を作成すること。
ハ 営業秘密記録媒体等の記載又は記録であって、消去すべきものを消去せず、かつ、当該記載又は記録を消去したように仮装すること。
四 営業秘密を営業秘密保有者から示された者であって、その営業秘密の管理に係る任務に背いて前号イからハまでに掲げる方法により領得した営業秘密を、不正の利益を得る目的で、又はその営業秘密保有者に損害を加える目的で、その営業秘密の管理に係る任務に背き、使用し、又は開示した者
・・・
不競法第21条3項,4項は、正当に営業秘密を示された者(企業から業務遂行のために営業秘密を渡された者)が営業秘密侵害罪に問われる場合が規定されています。すなわち、この規定は、転職者が前職企業の営業秘密を持ち出した場合に適用される可能性があります。
具体的には、3項には不正の利益を得る目的や損害を与える目的(図利加害目的)で営業秘密を領得した場合が営業秘密侵害罪であるとされ、その領得には横領や複製の作成、消去したように見せる、ことであると規定されています。
また、4項には領得した営業秘密を図利加害目的的で使用又は開示することが、営業秘密侵害罪であると規定されています。

このように、営業秘密の刑事的責任では図利加害目的のある「領得」と「使用又は開示」とが明確に分かれており、営業秘密保有者に図利加害目的で領得(持ち出)しただけでも刑事罰を受ける可能性があります。


実際にこのような事例は多々あり、最高裁まで争った事件(最高裁平成30年12月3日 事件番号:平30(あ)582号)もあります。この事件は、日産の元従業員が他の自動車メーカーへ転職するにあたって、日産の営業秘密を持ち出した事件であり、他の自動車メーカーへの当該営業秘密の開示は認められなかった事件です。
具体的には、被告人は、転職が決まった後に多量の営業秘密(データファイル)を私物のハードディスクに複製しています。この行為について、裁判所は以下のように判断し、「不正の利益を得る目的」があったとして、懲役1年(執行猶予3年)の刑となっています。
❝・・・被告人は,勤務先を退職し同業他社へ転職する直前に,勤務先の営業秘密である前記1の各データファイルを私物のハードディスクに複製しているところ,当該複製は勤務先の業務遂行の目的によるものではなく,その他の正当な目的の存在をうかがわせる事情もないなどの本件事実関係によれば,当該複製が被告人自身又は転職先その他の勤務先以外の第三者のために退職後に利用することを目的としたものであったことは合理的に推認できるから,被告人には法21条1項3号にいう「不正の利益を得る目的」があったといえる。❞
このように、転職前に正当な目的無く営業秘密を持ち出すと転職先で開示又は使用するという図利加害目的である判断され、刑事罰を受ける可能性があります。

さらに、不正競争防止法第21条1項7号には下記のように、不正に開示された営業秘密を他者が使用又は開示することが営業秘密侵害であると規定されています。
七 不正の利益を得る目的で、又はその営業秘密保有者に損害を加える目的で、第二号若しくは前三号の罪又は第三項第二号の罪(第二号及び前三号の罪に当たる開示に係る部分に限る。)に当たる開示によって営業秘密を取得して、その営業秘密を使用し、又は開示した者
すなわち、営業秘密を前職企業から不正に持ち出した転職者(転入者)が、前職企業等の他社の営業秘密を転職先で開示し、この情報が他社の営業秘密であるとの認識のもとで転職先企業の従業員が使用等すると、当該従業員も刑事罰を受ける可能性があります。

この7号が適用された事件としては、東京高裁令和 4年2月17日(事件番号:令3(う)1407号)があります。この事件は、a社の取締役であった被告人Y1がa社の営業秘密である測定治具等の設計図面を領得して、中国会社の代表者である被告人Y2に開示して被告人Y2はこれを使用したというものです。
判決は、被告人Y2が懲役1年及び罰金60万円、被告人Y1が懲役1年4か月及び罰金80万円となっており、共に執行猶予はありません。

このように、営業秘密を領得しただけでも刑事罰が課される可能性があり、さらに、領得した者から開示された営業秘密を使用等した者も刑事罰を受ける可能性があります。

弁理士による営業秘密関連情報の発信 

2023年6月7日水曜日

営業秘密侵害はどこから民事的責任を負うのか。

営業秘密の侵害、特に転職時に前職企業の営業秘密を持ち出した場合には、どこから法的責任を問われるのでしょうか。
まず、民事的責任についてですが、不正競争防止法第2条第1項第7号には以下のように規定されています。
不正競争防止法 第2条第1項第7号
営業秘密を保有する事業者(以下「営業秘密保有者」という。)からその営業秘密を示された場合において、不正の利益を得る目的で、又はその営業秘密保有者に損害を加える目的で、その営業秘密を使用し、又は開示する行為
上記規定によると、営業秘密を不正に持ち出したとしても、それを使用や開示しなければ民事的には責任を負わないようにも思えます。

一方で、営業秘密を持ち出された被侵害者は、下記のように差止請求権と共に損害賠償が認められています。すなわち、営業秘密の侵害者は、民事的責任として、損害賠償と差し止めを負うことになります。
不正競争防止法 第3条(差止請求権)
不正競争によって営業上の利益を侵害され、又は侵害されるおそれがある者は、その営業上の利益を侵害する者又は侵害するおそれがある者に対し、その侵害の停止又は予防を請求することができる。
不正競争防止法 第4条(損害賠償)
故意又は過失により不正競争を行って他人の営業上の利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責めに任ずる。ただし、第十五条の規定により同条に規定する権利が消滅した後にその営業秘密又は限定提供データを使用する行為によって生じた損害については、この限りでない。
上記規定によると、損害賠償は❝他人の営業上の利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する❞とあります。従って、仮に転職者が前職企業の営業秘密を不正に持ち出しても前職企業に損害が生じていない場合には、転職者は損害賠償の責任はないということになります。損害の発生は、例えば、不正に持ち出された営業秘密が使用されることで生じると考えられますので、上記の第2条第1項第7号からも想像しやすいと思えます。

一方、差止請求は❝不正競争によって営業上の利益を侵害され、又は侵害されるおそれがある者❞に認められています。すなわち、差止請求権は損害の発生とは関係なく、しかも❝侵害されるおそれ❞がある場合に生じることになります。
この❝侵害されるおそれ❞とはどのような状態をいうのでしょうか。不正に持ち出した営業秘密を使用や開示した状態も含まれることは理解できますが、果たしてそのような状態だけでしょうか。


ここで、参考になる裁判例がアルミナ繊維事件(大阪地裁平成29年10月19日判決 事件番号:平成27年(ワ)第4169号)です。
本事件は、原告が元従業員であった被告に対し、被告は原告から示されていたアルミナ繊維に関する技術情報等を持ち出し、これを転職先の競業会社で開示又は使用するおそれがあると主張したものです。本事件の被告は、原告の元従業員のみであり、転職先である競業会社は被告とされていません。なお、元従業員が当該技術情報を転職先に使用又は開示したという事実は確認されていません。

これに対して裁判所は下記のような理由から原告の差止請求を認めました。
❝被告は,双和化成への転職を視野に入れ,これら本件電子データを双和化成に持ち込んで使用するための準備行為として,原告に隠れて,それら電子データを本件USBメモリ及び本件外付けHDDに複製保存したものと優に推認され,また双和化成においても,そのことの認識がありながら原告を懲戒解雇されて間もない被告との一定の関係を持つようになったことも推認されるから,被告は,原告から示された本件電子データを原告の社外に持ち出した上,少なくとも,これを双和化成に開示し,さらには使用するおそれが十分あると認められる。❞
また、本事件の原告は、被告に対して損害賠償として弁護士費用1,200万円を請求しましたが、判決では弁護士費用相当の損害額として500万円が認められています。
このように、営業秘密を不正に持ち出した後の状況にもよるかと思いますが、営業秘密を不正に持ち出したことをもって、❝侵害されるおそれ❞があるとして差止請求が認められ、その弁護士費用相当の損害賠償が認められる可能性があります。

なお、被告の転職先企業は本事件では被告とされていませんが、本事件に先立ち証拠保全を受けています。証拠保全の目的は、被告の転職先企業で営業秘密の使用又は開示が行われたことを示す証拠を得ることでしょうが、本事件の判決文を見る限り、そのような事実はなかったようです。しかしながら、被告の転職先企業は実際に証拠保全を受けたことには変わりはないため、被告の転職先企業も、被告による前職企業の営業秘密の持ち出し行為に対して、少なからず影響を受けたことになります。

弁理士による営業秘密関連情報の発信