2021年5月23日日曜日

判例紹介:営業秘密の帰属について

営業秘密が企業だけでなく当該営業秘密を創出した従業員にも帰属するか否かは、不正競争防止法に営業秘密が規定された当初から議論になっていました。この理由の一つには、営業秘密の帰属について不正競争防止法では明確に規定されていないためです。
そして、あまり多くないものの裁判でも争点になる場合もあり、その帰属は企業にあるとの結論が全てです。


今回紹介する裁判例は東京地裁令和2年6月11日(平成30年(ワ)20111号)です。
本事件の原告は保険代理店であり、被告は訴外AIU保険会社を退職後にAIU保険会社の紹介により原告に入社しました。被告は、AIU保険会社において開拓した顧客を原告在職時にも担当していましたが、その後、原告を退職し、損害保険や生命保険の募集等に関する業務を行う訴外会社に就職しました。
そして、被告が原告を退職した後、被告がAIU保険会社において開拓した顧客の情報(本件顧客情報1)の写真を原告の従業員であったBがLINEを通して被告へ送付しました。なお、この顧客情報1の各顧客はAIU保険会社に対して20万3505円を支払うことにより、原告が保険代理店として同各顧客を担当することとなったものです。


この本件顧客情報1に対して被告は、”本件顧客情報1の各顧客は,被告が自らの人脈で開拓した顧客であるから,本件顧客情報1は被告に帰属するものであり,被告は,各顧客の了承の下,これを原告に提供したにすぎない。”と主張しました。

この被告の主張は理解できなくもありません。
そもそも本件顧客情報1は被告がAIU保険会社の元で開拓した顧客の情報であり、被告が原告の元で開拓した顧客の情報ではありません。そして原告はAIU保険会社から20万3505円を支払うことで本件顧客情報1の顧客を担当するになったものです。
そうすると、原告はこの本件顧客情報1を確かに保有しているものの、被告はもともとAIU保険会社にて当該顧客を開拓したのであるから、本件顧客情報1は被告にも帰属するという考えもあり得るようにも思えます。

これに対して裁判所は、下記のように本件顧客情報は原告に帰属すると判断しました。
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・・・本件顧客情報1は,その各顧客に係る契約を取り扱う主体である原告に帰属するものであると認めるのが相当というべきである。
この点,被告は,本件顧客情報1の各顧客は,被告が自らの人脈で開拓した顧客であるから,本件顧客情報1は被告に帰属するものであると主張する。しかし,上述のとおり,本件顧客情報1は,あくまで保険契約に係る情報を含むものであり,私的に管理している情報とは区別されるべきものであるから,原告が取り扱う保険契約に係る情報をも含む本件顧客情報1が,原告の一従業員であった被告個人に帰属するものとはおよそ認めることができない。
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このように裁判所は、"保険契約に係る情報を含む"という理由から本件顧客情報1は被告に帰属しないと認定しています。
この”保険契約に係る情報を含む”とは、”各顧客に係る契約を取り扱う主体である原告”とのように裁判所が認定していることからも、”原告の業務に係る情報を含む”との意味でしょう。

そうすると、原告が保有している営業秘密であっても、当該営業秘密が示す情報と原告の業務との関係によっては、当該営業秘密を創出した従業員にも帰属する可能性があるのではないでしょうか。
すなわち、企業の業務とは直接的に関係のない情報は、当該営業秘密を創出した従業員にも帰属する可能性があるのではないでしょうか。

とはいえ、企業が保有する営業秘密はそのほとんどが企業の業務に係る情報でしょうから、営業秘密のほとんどは、当該営業秘密を創出した従業員に帰属することなく企業にのみ帰属するのでしょう。

しかしながら、例えば、従業員がした発明によっては未だ当該企業の業務となっておらず、当該従業員自身の発案により、オリジナル性が高いものである場合もあります。そうすると、このような発明を営業秘密として企業が管理すると、当該企業だけでなく、当該発明を創出した従業員にも帰属する可能性があるのではないでしょうか。
また、従業員が発案した新規な(従業員が所属する企業で未だ行っていない)ビジネスモデル等も、当該ビジネスモデルを創出した従業員にも帰属する可能性があるようにも思えます。
このように、営業秘密が企業だけでなく当該営業秘密を創出した従業員にも帰属するか否かは、その営業秘密の内容によって変わるのではないでしょうか?

弁理士による営業秘密関連情報の発信 

2021年5月16日日曜日

退職者に対する秘密保持契約の理解は正しい?

最近、営業秘密侵害の刑事事件の増加に伴い、退職者に対する秘密保持契約の必要性に言及した報道も目に付くようになりました。
しかしながら、このような報道が営業秘密の秘密管理性を正しく理解したうえでなされているのか少々疑問に感じます。

具体的には、退職者と企業との間で秘密保持契約を交わしたからといって、企業が保有する情報に対する秘密管理性が認められるとも限りません。すなわち、秘密保持契約を企業と退職者とが交わしたとしても、それを持って、企業が保有する情報が営業秘密と認められるわけではありません。
一方で、退職者が企業との間で秘密保持契約を交わさなかったからといって、企業が保有している情報を退職者が自由に持ち出していい、というものでもありません。すなわち、秘密保持契約を企業と退職者とが交わさなかったとしても、それ持って、企業が保有する情報が営業秘密と認められ無いわけではありません。

私は、退職者と企業との間における秘密保持契約は企業が保有する営業秘密の秘密管理性を補強するに過ぎないものであり、対象となる情報に秘密管理措置を常日頃から行っていないと、当該秘密保持契約は意味をなさないと考えます。
一方で、秘密管理措置を常日頃から行っていれば、たとえ退職者との間で秘密保持契約を締結しなくても、当該情報を不正に持ち出した退職者に対して営業秘密侵害を問うことができます。

例えば、東京地裁平成30年9月27日判決(平成28年(ワ)26919号 ・ 平成28(ワ)39345号)があります。
本事件において被告A、Bは、まつ毛サロンを経営する原告の元従業員であり、退職後に同業他社のまつ毛サロンで勤務しています。原告は、被告A,Bが退職後の勤務先で原告から示された営業秘密(本件ノウハウ)を不正に利益を得る目的で使用又は開示しているとして、本件ノウハウの使用又は開示の差止め等を求めました。

この事件では、下記のように原告は退職する従業員に対して守秘義務についての誓約書を提出させています。そして、本事件の被告である元従業員もこの誓約書を提出しています。
また、原告は就業規則においても守秘義務を課していることを主張しています。
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原告は,就業規則において,本件ノウハウを含む会社の業務上の機密を他に漏らしてはならず,会社の許可なくマニュアル類等の重要物の複製や持ち出しを行ってはならないことや,退職時に守秘義務等について明記した誓約書を提出することなどを定めており,実際に,原告は,従業員が退職する際には,当該従業員に,本件ノウハウを含む原告の機密情報を一切漏らさない旨を誓約させ,退職する従業員にも秘密保持義務を負わせている。
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これに対して被告は下記のような主張を行っています。
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秘密管理性の要件を満たすためには,その情報が営業秘密であることを第三者が認識できることが必要であると解される。
しかしながら,原告の就業規則においても,被告らが原告に対して退職時に提出した誓約書においても,本件ノウハウが業務上の機密又は機密情報に該当するか否かは定かではない。
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そして裁判所の判断は以下のとおりです。
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本件で,原告が営業秘密であると主張する本件ノウハウは,原告で施術されるまつ毛パーマ,アイブロウ及びまつ毛エクステンションの技術に関する情報であるところ,原告においては,同技術が蓄積されていて,従業員に対して,その技術を幅広くトレーニング等で伝えていたことが認められる。しかしながら,上記(1)イ及びカのとおり,それらの技術について,秘密であることを示す文書はなかったし,従業員が特定の技術を示されてそれが秘密であると告げられていたものではなく,また,その技術の一部といえる本件で原告が営業秘密であると主張する本件ノウハウについて,網羅的に記載された書面はなく,従業員もそれが秘密であると告げられていなかった。
・・・
 以上によれば,本件ノウハウについて,原告において秘密として管理するための合理的な措置が講じられていたとは直ちには認められない。また,まつ毛パーマ等に関する技術については一般的なものも含めて様々なものがあることも考慮すると,上記のような状況下で,被告らにおいて,本件ノウハウについて,秘密として管理されていることを認識することができたとは認められない。
そうすると,本件ノウハウは,「秘密として管理されている」(不競法2条6項)とはいえないから,その余の要件について判断するまでもなく,営業秘密には該当するということはできない。
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このように、たとえ企業が退職者との間で秘密保持契約(守秘義務契約)を交わしたとしても、そもそも企業が対象とする情報に対して秘密管理措置を行っていないと、当該秘密保持契約は何ら意味を成し得ません。これは、就業規則に記載されている守秘義務も同様です。
このことを企業は十分に理解して退職者と秘密保持契約を締結する必要があります。

では、何のために退職者と秘密保持契約を交わすのか?
その理由は、退職者に営業秘密の不正な持ち出しは違法であることを再認識させるためと考えるべきでしょう。最善の秘密保持契約では、退職者が知っているであろう企業秘密を特定できるように契約書に記し、それらが営業秘密であることを再認識させることです。

一方で、退職時に企業から秘密保持契約を求められなかったり、求められても拒否したからと知って、その退職者が在籍していた企業の情報を自由に持ち出すことが出来るわけではないことも理解できるでしょう。既に、営業秘密として管理されている情報は、たとえ秘密保持契約を交わしていなくても、不正に持ち出すことは違法となります。
従って、退職時に秘密保持契約を交わしていないことは、営業秘密を持ち出してよいことの理由にはなり得ません。

以上のように、営業秘密侵害の報道で言及されているような、退職者と企業との間における秘密保持契約の有無は営業秘密侵害において重要な要素ではありません。「退職者との間で秘密保持契約さえ交わせば安心」とのような認識を持っている企業は、今一度、営業秘密の要件を確認する必要があるでしょう。

弁理士による営業秘密関連情報の発信 

2021年5月5日水曜日

ブログ開始から5年目になりました。

今月でこのブログを始めてから5年目になりました。 

先月は、パテント誌2021年4月号に”知財戦略カスケードダウンと三方一選択”と題した論文が掲載されました。
この内容は本ブログでも提案している、事業の利益又は事業に基づく企業価値を最大化することを目的として、発明に対して権利化(特許化)、秘匿化、又は自由技術化を選択(三方一選択)する、というコンセプトとした知財戦略(特許出願戦略)を記載したものです。

知財戦略カスケードダウンの考え方としては、まず、事業を目的、戦略、戦術とのように段階的に理解します。そして、事業戦術から知財目的を設定し、事業戦術に用いる技術要素(複数の発明の集合)に対して知財戦略を設定し、さらに具体的な知財行動である知財戦術として発明毎に三方一選択を行うというものです。
下記参考は、知財戦略カスケードダウンの考え方の具体例です。
今後は、他にも具体例をいくつか挙げていきたいと思っています。


このように、今後は、営業秘密だけでなく、特許も含めた知財戦略についても考えていきたいと思っています。
このため、このブログのタイトルも「営業秘密ラボ」から、「特許と営業秘密と知財戦略 -営業秘密ラボー」に替えました。


また、昨年はツイッターによる情報発信も始めましたが、ブログのまとめ記事を掲載するためにnoteも始めました。
こちらの更新頻度は低めの予定です。このページ<まとめ記事 ーnoteへのリンクー>からもアクセスできます。

さらに、営業用として「営業秘密漏えい防止研修のご依頼」のページも作っています。営業秘密の漏えい防止には、従業員に対する教育が一番であると考えています。
今後は、上記の知財戦略カスケードダウンと三方一選択に基づいた知財戦略に関するサービスも行いたいと考えています。

弁理士による営業秘密関連情報の発信 

2021年4月25日日曜日

アサヒビールの生ジョッキ缶から考える知財戦略(3 最終回)

前々回はアサヒビールの生ジョッキ缶から考える知財戦略(1)です。

<パターン3:生ジョッキ缶市場を拡大する目的で、缶内面の凹凸等を特許出願>

ここまでは、”生ジョッキ缶の市場独占”を事業戦術として選択する場合を想定しました。
一方、自社だけでは生ジョッキ缶市場の拡大が難しいと考え、他社に生ジョッキ缶市場の参入を促すことで市場の拡大を図ることを事業戦術とする可能性もあるでしょう。市場拡大によって他社との競争が発生しますが、他社に対して自社の優位性を保つことで、市場独占よりも大きな売り上げの増加を狙います。これがパターン3です。

以下にパターン3における事業目的・戦術・戦略、これに基づく知財目的・戦略・戦術を記します。

・事業
目的:新規な製品により缶ビールの販売増
戦略:缶ビールでありながら、生ビールのような泡立ちを生じさせる製品の販売
戦術:フルオープン缶により沸きでるような泡立ちを再現
   泡立ちの原理(缶内面の凹凸)を公開することで技術力アピール
   他社の市場参入を促し、生ジョッキ缶市場の拡大     

・知財
目的:他社の市場参入を促し、生ジョッキ缶市場の拡大
戦略:技術を公開しつつ、自社の優位性を保てる技術は特許権を取得
戦術:自由技術(フルオープン缶の形状、炭酸ガス圧の数値範囲)
   権利化缶内面の凹凸の優位性を保てる数値範囲
他社の参入を促して市場を拡大するためには、知財戦略として発明の”自由技術化”が選択されるでしょう。自由技術化は、換言すると権利化を伴わない技術の開示です。
技術の開示は、経営方針に記載されているような開示やホームページによる開示、自社が発行する技術文献による開示があります。また、特許出願による開示もあります。

特許出願は特許権を取得するために行うものですが、特許請求の範囲の技術的範囲に含まれない技術は他社が自由に実施可能な技術となります。そうすると、自社製品が優位性を保てる技術に対して特許権を取得する一方で、他社が当該製品を製造可能な程度の技術は権利取得しないという選択もあります。
これにより、他社による当該製品の市場参入を促す一方で、自社製品の優位性を保つ技術を権利化して他社製品との差別化を行い、市場拡大による自社利益の最大化に貢献できると考えられます。

これを生ジョッキ缶に当てはめるて考えます。
まず、フルオープン缶の形状は、生ジョッキ缶に必須の形状であると考えられます。これを権利化してしまうと、他社は生ジョッキ缶市場へ参入し難くなるため、権利化は行わずに自由技術化とします。

そして、特許出願によりアサヒビールは自社が他社に対して優位性を保てると考える”缶内面の凹凸の数値範囲”、具体的にはより効果的に泡立ちを発生させることができる数値範囲で特許権を取得することを目指します。
一方で、特許請求の範囲に含まれない数値範囲、すなわちそれなりに泡立たせることができる凹凸の数値範囲は自由技術とし、他社による生ジョッキ缶の市場参入を促します。また、炭酸ガス圧や凹凸を形成するための塗料の組成や焼き付けに関する技術も開示し、より他社が実施し易いようにすることも考えられます。

以上のように、新規な製品カテゴリ(新ジャンル)であれば、敢えて技術情報の一部(他社の市場参入を促す技術情報)を自由技術化することで市場の拡大を図ることが考えられるでしょう。そして、拡大した市場の中で優位性を保てる技術を権利化することで、当該市場に占めるシェアを大きくし、その結果、市場を独占する場合よりも大きな利益を得ることを目指すという知財戦術も考えられます。

なお、このような発明の自由技術化は市場の拡大に役立つと考えられる一方で、他社が自社よりも良い製品を販売することで、自社のシェアが大きくならず、結果的に市場を独占した場合よりも利益が小さくなる可能性も想定されます。このため、自社の技術力及びブランド力等も鑑みて、市場独占又は市場拡大を選択することになるかと思います。


<まとめ>

本ブログではアサヒビールの生ジョッキ缶に対して、市場独占のための特許化、市場独占のための秘匿化、市場拡大のための自由技術化と特許化、とのように3パターンの知財戦術を検討しました。

ここで、発明を特許出願して独占排他権を得ることができれば、事業に対して非常に有益です。しかしながら、特許出願は技術を公開することになるので公開リスクがあります。もし、安易な特許出願を行うと他社に技術を教えることになり、事業戦術(知財目的)とは異なった結果を招く可能性もあります。

一方で、発明を秘密にすることも十分な検討が必要です。自社製品をリバースエンジニアリングすることで容易に知り得る技術は実質的に秘密にできません。また、他社が比較的容易に思い付きそうな発明は他社に特許権を取得される可能性があります。そのような発明に対しては秘匿化よりも特許化のほうが良いでしょう。

さらに、自由技術化は発明を世に広めるためには良いですが、自社開発技術を他社に自由に使用させることになるので、最も慎重になる必要があります。なお、自由技術化にしても、権利を取得したうえで、権利行使を行わないことを宣言することで実質的に自由技術化することもできます。

このように、発明を知財として扱う場合には、権利化、秘匿化、又は自由技術化の3種類しか選択肢はありませんが、その選択を事業に基づいて適切に決定するというものが、このブログで提案している知財戦略カスケードダウンです。

ここで、生ジョッキ缶に対する知財戦略・戦術としては、個人的にはパターン2のようなものが適しているのではないかと思います。
アサヒビールの生ジョッキ缶は話題性も高く、すぐに販売中止となるような人気です。おそらく、アサヒビール以外の他社も生ジョッキ缶と同様の製品の販売を目指すことになるでしょう。
その場合、既にアサヒビールが開示している缶内面の凹凸等の技術情報や、今後発行される特許公開公報で開示される技術情報は最も参考になる資料となります。
ところが、特許権は審査を経て取得されるものですので、既述のように最終的にどのような権利を得ることが出来るのかわかりません。そのため取得した特許権が思ったような技術的範囲とならない可能性もあります。

一方で、生ジョッキ缶の凹凸に関する情報を秘匿化しても、遅かれ早かれ他社も同じ技術に達する可能性は高いと思いますが、販売までにそれ相応の時間を要すると思います。このため、他社が同様の製品を販売するまでの間に、”生ジョッキ缶=アサヒビール”とのようなイメージを消費者に植え付け、自社製品の優位性を高めた状態にし、他社が参入したとしても高いシェアを維持するという戦術が取れると思います。
すなわち、生ジョッキ缶で高い利益を維持することを目的として、”技術的優位性”から”ブランド優位性”に知財戦略・戦術を変化させる時間的余裕を得ることができるでしょう。

以上のようにアサヒビールの生ジョッキ缶は、技術的にも興味深いものであり、缶ビールの新しいジャンルとも捉えることができる面白い題材であるので、このブログで提案している知財戦略カスケードダウンに当てはめて検討してみました。
アサヒビールの生ジョッキ缶に対する知財戦略・戦術が一体どのようなものであるのかはわかりませんが、今後、特許公開公報が発行されることで、どのような技術の権利化を狙っているのかが分かり、生ジョッキ缶に対する知財戦略・戦術を理解できるかもしれません。また、他社が生ジョッキ缶と同様の製品を製造販売するか否か、それに特許がどのような影響を与えているのかも分かるでしょう。

弁理士による営業秘密関連情報の発信 

2021年4月18日日曜日

アサヒビールの生ジョッキ缶から考える知財戦略(2)


<4.知財戦略カスケードダウンと三方一選択のあてはめ>

次に、生ジョッキ缶に関する事業を目的、戦略、及び戦術に細分化し、これに伴う知財の目的、戦略、戦術も細分化し、本ブログで提案している知財戦略カスケードダウンに当てはめます。なお、この細分化は、筆者がアサヒビールが開示している技術情報等に基づいて想像したものであり、実際にアサヒビールがこのように考えているものではなく、アサヒビールの事業戦略や知財戦略とは何ら関係はありません。

今回は、以下の3つのパターンを想定しました。
パターン1:生ジョッキ缶市場を独占する目的で、缶内面の凹凸等を特許出願
パターン2:生ジョッキ缶市場を独占する目的で、缶内面の凹凸等を秘匿化
パターン3:生ジョッキ缶市場を拡大する目的で、缶内面の凹凸等を特許出願

パターン1と2は、目的が同じであるものの、知財として実行手段が異なります。
パターン3と1は、知財として実行手段が同じであるものの、目的が異なります。


<パターン1:生ジョッキ缶市場を独占する目的で、缶内面の凹凸等を特許出願>

パターン1では、生ジョッキ缶市場の独占を事業戦術と仮定します。
生ジョッキ缶は、今までにない新しい缶ビールのジャンルとも思われ、素直に考えると、この新しいジャンルを独占することにより利益の向上が可能になると思われます。
そして、知財としては、生ジョッキ缶に関する技術を権利化して排他的独占権を得ることで、市場の独占を実現することになります。
おそらく、このパターン1が、生ジョッキ缶の戦略としてアサヒビールが考えていることではないかと思います。

以下にパターン1における事業目的・戦術・戦略、これに基づく知財目的・戦略・戦術を記します。

・事業
目的:新規な製品により缶ビールの販売増
戦略:缶ビールでありながら、生ビールのような泡立ちを生じさせる製品の販売
戦術:フルオープン缶により沸きでるような泡立ちを再現
   泡立ちの原理(缶内面の凹凸)を公開することで技術力アピール
   生ジョッキ缶市場の独占     

・知財
目的:生ジョッキ缶市場の独占
戦略:公開した技術について特許権の取得
戦術:権利化(缶内面の凹凸や炭酸ガス圧の数値範囲、フルオープン缶の形状)
   秘匿化(凹凸を形成する塗料の成分)

パターン1の知財戦術では、塗料の成分は秘匿化技術としました。
この理由は、前回のブログでも記したように、缶内面の凹凸を実施する方法として様々な方法があり、塗料による凹凸の形成はその一例にしかすぎず、凹凸の数値範囲で権利化を目指すのであれば、塗料の成分まで特許出願によって開示する必要はないと考えたためです。実際、アサヒビールの経営方針等でも、缶内面の凹凸の形成を塗料で実現することは開示していますが、その成分までは開示していません。

<生ジョッキ缶市場の独占に対する特許出願の妥当性>

生ジョッキ缶の事業戦術及び知財目的として、「生ジョッキ缶市場の独占」を仮定した場合、特許出願を行うことは妥当でしょうか?

特許出願する場合には、その明細書に当業者が発明を実施可能な程度に記載する必要があります。すなわち、生ジョッキ缶に関する技術の多くが特許明細書に記載されています。
そして、前回のブログでも記したように、缶内面の凹凸の数値範囲や炭酸ガス圧の数値範囲で特許権を取得したとしても、他社はその数値範囲に含まれない技術を実施可能です。

確かに、缶内面の凹凸によってビールの泡立ちが良くなるという技術は興味深く、製品の宣伝にも使えるかと思います。現に、生ジョッキ缶を紹介する報道においても、缶内面の凹凸に言及したものが多数あります。
しかしながら、缶内面の凹凸に関して特許権を取得したとしても、その技術的範囲を回避することは比較的容易と思えます。一方で、凹凸を形成する塗料の成分を秘匿化ではなく、特許化することも考えられますが、塗料の成分までも公開してしまうと、この特許権に含まれない塗料の成分を探し出すこと、これも容易かもしれません。
また、炭酸ガス圧の数値範囲を特許化したとしても、特許権に含まれる技術的範囲の回避は容易でしょう。

そうすると、缶内面の凹凸や炭酸ガス圧に関する技術を特許化したとしても、生ジョッキ缶の市場を独占することできないかもしれません。

では、フルオープン缶の形状の権利化はどうでしょうか。
アサヒビールは、経営方針において「高価格帯の食品缶詰等で採用実績はあるが、飲料缶では初採用。」と述べていますが、権利化については言及していません。

ここで、通常の缶ビールで採用されているプルタブ缶では、フルオープン缶で実現できる泡立ちのインパクトは得られません。このため、フルオープン缶は生ジョッキ缶において必須の技術要素とも考えられます。しかも、フルオープン缶はビール缶の飲み口である上面を全開にするという単純な技術です。もしフルオープン缶を権利化できた場合、これを回避する方法はあるのでしょうか?この回避技術の開発は難しいようにも思えます。
そうであれば、フルオープン缶の権利化によって、生ジョッキ缶市場への他社の参入を阻害できるのではないでしょうか。

しかしながら、フルオープン缶は既に食品缶詰等で用いられているので、特許出願しても進歩性をクリアできず、特許権を取得できない可能性が高いと思われます。

一方で、実用新案や意匠による権利化はどうでしょうか?
実用新案であれば、進歩性の判断基準が特許に比べて低いため、フルオープン缶をビール缶に適用したという点をもって、技術評価書で”進歩性あり”と判断される可能性もあるのではないでしょうか(実用新案は無審査で登録されますが、技術評価書を提示して警告した後に権利行使が可能となります。)。また、意匠であれば、創作非容易性の判断基準が特許の進歩性に比べて低いため、これも登録となる可能性があるのではないでしょうか。

このようにフルオープン缶の形状を実用新案登録又は意匠登録できれば、他社による生ジョッキ缶の製造販売を十分に阻害でき、市場を独占できる可能性もあると考えます。

以上のように、缶内面の凹凸等を特許化したとしても、その特許権の技術的範囲の回避が容易であれば、特許化は生ジョッキ缶市場の独占という目的には有効ではないように思えます。もし、フルオープン缶の形状を権利化できない場合には(実際にはこの可能性の方が高いかもしれません。)、缶内面の凹凸等の特許出願によって技術を他社に開示したに過ぎない結果になるかもしれません。
もし、そのような結果になれば、事業戦術及び知財目的である生ジョッキ缶市場の独占どころか、特許出願による技術開示が市場独占の真逆である他社参入を促すことになりかねません。


<パターン2:生ジョッキ缶市場を独占する目的で、缶内面の凹凸等を秘匿化>

では、缶内面の凹凸等を特許出願せずに秘匿化、すなわち企業秘密としたらどうでしょうか?それがパターン2です。

ここで、あらためて、特許等の権利化と秘匿化の違いについて簡単に説明します。
特許等の権利化には技術の開示が必須ですので他社に技術を知られます。これが権利化のリスク(公開リスク)となります。一方で、秘匿化はその名の通り技術を開示しないので、他社に技術を知られません。
しかしながら、特許は独占排他権ですので、他社が自社の特許権の技術的範囲に含まれる技術を実施していたら、この他社は当該特許権の権利侵害となります。もし、他社が自社の特許権を知らずに、同じ技術を自社で独自開発したとしてもです。一方で、秘匿化した自社の技術は、独占排他権ではないので同じ技術を他社が実施していても他社は権利侵害とはならず、自由に実施できます。
このように秘匿化は、特許のように自社の技術を開示しないので公開リスクはありませんが、同じ技術を他社が独自開発しても何もできません。これが秘匿化のリスク(秘匿化リスク)となります。

以下にパターン2における事業目的・戦術・戦略、これに基づく知財目的・戦略・戦術を記します。

・事業
目的:新規な製品により缶ビールの販売増
戦略:缶ビールでありながら、生ビールのような泡立ちを生じさせる製品の販売
戦術:フルオープン缶により沸きでるような泡立ちを再現
   泡立ちの原理(缶内面の凹凸)を公開することで技術力アピール
   生ジョッキ缶市場の独占     

・知財
目的:生ジョッキ缶市場の独占
戦略:公開した技術について特許権の取得
戦術:権利化(フルオープン缶の形状)
   秘匿化(缶内面の凹凸や炭酸ガス圧の数値範囲、凹凸を形成する塗料の成分)

パターン2では、缶内面の凹凸等を秘匿化するので、事業戦術として技術アピールは行いません。このため、他社は生ジョッキ缶が開封時に泡立つ原理を容易には知り得ません。

フルオープン缶の形状は、パターン1でも述べたように見た目で容易に理解でるので、秘匿化はできません。このため、フルオープン缶の形状は、パターン1と同様に権利化を目指します。
パターン1でもパターン2でも、フルオープン缶の形状を権利化できれば、他社による生ジョッキ缶市場の参入に対して、大きな阻害要因となると思えます。しかしながら、プルオープン缶の形状を権利化できない可能性もあります。
すなわち、フルオープン缶の形状を権利化できなかった場合、もしくは権利化をしなかった場合に、パターン1とパターン2とでは市場の独占可能性について大きな違いが出てくると考えます。

<缶内面の凹凸等に対するリバースエンジニアリングの可否>

技術の秘匿化を検討する場合、当該技術を使用した製品をリバースエンジニアリングすることで、他社が当該技術を容易に知り得るか否かが重要になります。
リバースエンジニアリングによって容易に知り得る技術は、公開リスクが実質的にないとも考えられ、積極的に権利化のための出願を行ってもよいでしょう。この考えに基づいたものが、フルオープン缶の形状の権利化です。

では、缶内面の凹凸等が容易にリバースエンジニアリングが可能であるか検討してみましょう。
下記写真のように缶内面の凹凸は視認により確認できず、指で触っても凹凸を感じることはできませんでした。


そのため、缶内面の凹凸の技術が秘匿化されると、泡立ちの仕組みが缶内面の凹凸にあることを容易に知ることはできないようにも思えます。従って、他社は泡立ちの仕組みを試行錯誤して自ら知り得る必要があります。
そのためには、他社は、生ジョッキ缶の内面をSEM等で観察することで凹凸に気づき、さらに内面に凹凸を形成した缶ビールを製造し、アサヒビールの製品のように泡立ちが発生するか否かを確認する必要があるでしょう。
なお、凹凸が泡立ちに影響を与えることは周知のようですので、缶内面の凹凸が秘匿化されても、他社が生ジョッキ缶の凹凸がその仕組みであることには気付くかもしれません。しかし、凹凸が泡立ちの仕組みであることの確信は実際に凹凸を形成した缶ビールを製造するまでは得られないでしょう。

また、他社は凹凸を確認しても、それを再現する方法も試行錯誤する必要があります。いったいどうやって缶内面に凹凸を形成するのか?缶内面には、缶の内容物であるビールに悪影響を与える処理は行えません。アサヒビールは、この技術的な課題を、焼き付け塗装によって解決しました。
凹凸の形成方法は幾つもあるでしょうが、アサヒビールからの技術開示が無ければ、他社は独自で凹凸の形成方法を見つけ出さねばなりません。生ジョッキ缶を製造するためには、これが一番難しいでしょう。
もしかすると、缶内面の凹凸が泡立ちの仕組みであることに気が付いたとしても、焼き付け塗装による凹凸の形成という技術に気が付かず、生ジョッキ缶の再現ができない他社もあるかもしれません。

次に、炭酸ガス圧についてですが、これはどうでしょうか?
アサヒビールの生ジョッキ缶の炭酸ガス圧を、直接的に測定することは難しいのではないでしょうか?その理由は、炭酸ガス圧を測定するためには、生ジョッキ缶を開封する必要があるでしょうが、開封すると同時に炭酸ガスは大気中に開放されるので、生ジョッキ缶内の炭酸ガス圧を測定することは困難なように思えます。
しかしながら、炭酸ガス圧が泡立ちに影響を与えることも周知のようですので、炭酸ガス圧の調整にも他社は気が付くかと思います。

以上のように、アサヒビールが缶内面の凹凸等の技術情報を秘匿化しても、他社はリバースエンジニアリングと試行錯誤により、生ジョッキ缶に使用している技術を知り、生ジョッキ缶を再現するできる可能性があるかと思います。しかしながら、他社が実際に試作品を作るまでには、直感的に数か月~1年以上の期間が必要なのではないでしょうか?そして、販売に至るまでにはさらに時間を要するでしょう。
さらに、言うまでもなく、生ジョッキ缶の技術を再現できない他社は生ジョッキ缶への参入ができません。

<特許出願した場合と秘匿化した場合との違い>
パターン1でも述べたように、缶内面の凹凸を特許出願することにより、他社は生ジョッキ缶を製造するための技術情報を得ることができます。しかしながら、特許権の技術的範囲が他社の市場参入を阻害できるほど広ければ、アサヒビールが市場を長期間に渡って独占できる可能性が高いでしょう。
一方で、特許権の技術的範囲が狭く回避が容易であれば、当該特許権は他社による市場参入の阻害要因となりません。さらに、フルオープン缶の権利を取得できなかった場合には、他社による市場参入の阻害要因はほとんどないようにも思えます。

このように、缶内面の凹凸等の情報を特許化できれば市場を独占できる可能性もありますが、その権利範囲が狭ければ参入障壁とはならないばかりか、開示した技術によって他社参入を促すことにもなり得ます。なお、権利範囲が狭くても、他社が生ジョッキ缶市場に参入するまでは相応の時間を必要とするので、権利範囲が狭くてもある程度の期間は市場を独占できると思われます。


一方、上記のように缶内面の凹凸等の技術を秘匿化したとしても、他社も生ジョッキ缶を再現して製造販売できる可能性はあるかと思います。しかしながら、他社が生ジョッキ缶を試作するまでに要する時間は相当程度必要で、販売するまでには年単位で時間がかかるようにも思えます。すなわち、狭い権利範囲の特許権を取得した場合に比べて、その独占の期間は長くなると考えられます。

以上のように、権利化は審査があるので権利を取得できたとしても、その技術的範囲によっては、市場の独占という当初の目的を達成できない可能性があります。一方で、技術を秘匿化した場合、他社は自力で生ジョッキ缶を再現する必要があります。生ジョッキ缶を再現するための技術の中でも、缶内面の凹凸を形成するための技術開発は難しいことが予想されます。
そのため、たとえ他社が生ジョッキ缶を再現できたとしても、それ相応の期間で市場の独占が可能となるでしょう。もし、生ジョッキ缶を再現できる他社がなければ、半永久的に市場を独占できるかもしれません。

パターン1による権利化とパターン2による秘匿化のどちらが良いのかはわかりません。
しかしながら、重要なことは権利化又は秘匿化により、各々事業に与える影響を正しく理解して判断することにあると思います。

次回は<パターン3:生ジョッキ缶市場を拡大する目的で、缶内面の凹凸等を特許出願>について説明し、<まとめ>で終わります。

弁理士による営業秘密関連情報の発信