2023年3月12日日曜日

日本ペイントデータ流出事件の民事訴訟(和解)

日本ペイントの元執行役員が菊水化学へ転職する際に、日本ペイントの営業秘密を持ち出して菊水化学で開示・使用した事件があり、日本ペイントは元執行役員を刑事告訴し、菊水化学と元執行役員に対して民事訴訟を起こしていました。
先日、この民事訴訟について、日本ペイントと菊水化学との間で和解が成立したとのことです。これに関する費用として、和解金を含む訴訟費用3億7200万円(372 百万円)が菊水化学の特別損失として計上されています。
なお、刑事事件の被告である日本ペイント元執行役員は、持ち出したデータの営業秘密性を高裁まで争いましたが、懲役2年6月、執行猶予3年、罰金120万円の判決となっています。

<参考ニュース>
・菊水化学工業、日本ペイントHDと訴訟和解 特損3億円(日本経済新聞)
<参考ページ>
日本ペイントデータ流出事件(過去の営業秘密流出事件)

日本ペイントと菊水化学との民事訴訟において、どの様な主張が行われたのかは当然分かりませんが、刑事事件の結果もあるので、菊水化学が日本ペイントから持ち出されたデータの営業秘密性を否定することは難しいでしょう。
また、日本ペイントは、菊水化学による不正競争防止法2条1項8号違反を主張したのではないかと思います。
不正競争防止法2条1項8号
その営業秘密について営業秘密不正開示行為(前号に規定する場合において同号に規定する目的でその営業秘密を開示する行為又は秘密を守る法律上の義務に違反してその営業秘密を開示する行為をいう。以下同じ。)であること若しくはその営業秘密について営業秘密不正開示行為が介在したことを知って、若しくは重大な過失により知らないで営業秘密を取得し、又はその取得した営業秘密を使用し、若しくは開示する行為
上記8号に照らし合わせると、菊水化学が「営業秘密不正開示行為であることを知って」日本ペイントの営業秘密を使用等したとは思えないので、菊水化学が「重大な過失」を有していたか否かが争点になったのかと想像されます。


ここで、この事件の経緯は刑事事件判決(名古屋地裁令和2年3月27日 平28(わ)471号 ・ 平28(わ)662号)によると、以下の通りです。なお、下記の被告人は、日本ペイントの元取締役です。

(1) 被告人は、昭和53年にa社(日本ペイント)に入社し、平成22年3月にa社を退職し、同年4月に同社の子会社であるb社に転籍。
(2) 被告人は、平成25年2月12日に辞表を提出し、同年3月15日に同社を退職。
(3) 被告人は、b社に在籍中、同社本社内において,システムにアクセスして本件情報が記載された商品設計書を取得し、これを基に本件各塗料の原料及び配合量の情報についての完成配合表①、完成配合表②を作成。
(4)  被告人は、平成25年2月にc社(菊水化学)から同社の取締役への就任の打診を受け、同年4月にc社に入社して同年6月に同社の取締役に就任。
(5)  被告人は、同年4月頃にc社において、完成配合表①を基に作成した推奨配合表①をc社の従業員Aらに手渡す。
(6)  被告人は、同年8月2日に完成配合表②を基に作成した推奨配合表②を添付した電子メールをc社の従業員Bに送信。
(7)  c社は、被告人により開示された情報を用いて塗料X、塗料Yをそれぞれ開発製造して販売。

上記経緯から、菊水化学へ転職してきた日本ペイントの元取締役は、転職後に時間を置かず推奨配合表を菊水化学の従業員らに渡しています。元取締役は、菊水化学において取締役という役職でもあり、自身が短期間に菊水化学内で研究開発を行って、菊水化学での業務として推奨配合表を作成したとは考えられません。
そうすると、菊水化学は、この推奨配合表が日本ペイントから持ち出された情報に基づいて作成されたのではないか、ということを想像できるのではないでしょうか。そうであれば、菊水化学に重過失が有ったと考えられるのかと思います(営業秘密侵害においてどのような場合に「重過失」となるのか判例が少ないため、定かではありません。)。
おそらく、このようなやり取りがあり、その結果、菊水化学が金銭を日本ペイントに支払うという和解が成立したのではないかと思います。

菊水化学は、訴訟費用として和解金を含む3億7200万円を計上しています。訴訟費用とありますが、おそらくこの金額のほとんど、すなわち3億円以上が和解金かと思われます。
これにより、菊水化学は、2022 年4月1日~2023 年3月 31 日における個別業績予想を583百万円から395百万円に下方修正していることから、上記和解金が菊水化学の業績に少なからず影響を与えていることが分かります。また、菊水化学は、和解金の支払いだけでなく、推奨配合表等の廃棄等も行っているかと思います。
なお、菊水化学は、当該推奨配合表を用いたと思われる製品の製造販売を2017年3月の段階で停止しているようです。

このように、本事件は、営業秘密の流入リスクが顕在化した例といえるでしょう。
ここで、気になることがあります。
このような他社の営業秘密の流入に対する影響はいつまで続くのかということです。
特許権であれば、特許権の存続期間が過ぎると誰でも当該特許権に係る発明を実施可能となります。しかしながら、営業秘密には存続期間という概念はありません。

日本ペイントから持ち出されたデータは非常に有益なものなのでしょう。だからこそ、日本ペイントの元取締役は菊水化学への転職時に持ち出し、菊水化学も使用したのだと思われます。このため、菊水化学は同様の製品を再び製造販売したいと思うかもしれません。これが仮に特許権の侵害であれば、当該特許権の存続期間の経過後であれば、侵害した製品と同様の製品を製造販売しても問題はありません。
一方で営業秘密に関しても、流入した他社の営業秘密を使用せずに独自に開発すれば問題はありません。しかしながら、他社の営業秘密が自社に流入した場合には、当該他社の営業秘密を使用していないことを証明可能とする必要があるでしょう。
そのためには、まず、他社の営業秘密を使用した製品を製造した技術者を同様の製品の開発に携わらないようにするべきでしょう。当該技術者が当該他社の営業秘密を記憶している可能性があるからです。
そして、当該他社の営業秘密を使用せずに製品の開発を行ったことを証明できる各種データや資料を会社が存続している限り、残す必要があるかもしれません。
さらに、そもそも、同様の製品を製造販売するきっかけが当該他社の営業秘密とは無関係であることの証明も必要かもしれません。特許権の侵害は、特許請求の範囲で判断することができます。しかしながら、営業秘密の使用は、営業秘密から得られる情報そのものだけなのでしょうか。仮に、流入した営業秘密が、非公知の技術的な課題を解消するためのものである場合には、当該課題も営業秘密と捉えることができるかもしれません。流入した営業秘密に新たな課題を示す内容が明確に含まれていたらなおのことです。

このようなことを考えると、他社の営業秘密が流入した場合、その後に当該他社の営業秘密の使用を疑われそうな製品を開発することに躊躇することになります。その結果、自社はビジネスチャンスを失うことになるかもしれません。
営業秘密には存続期間の概念がないこと、営業秘密の使用の範囲が良く分からない、もしかすると非常に広い範囲なのかもしれない、とのようなことを考慮すると、営業秘密侵害は特許権侵害よりもその影響は大きいのかもしれません。

弁理士による営業秘密関連情報の発信 

2023年2月28日火曜日

かっぱ寿司営業秘密事件について

はま寿司の元取締役から転職したかっぱ寿司の元社長が、はま寿司の取引情報等の営業秘密を不正に持ち出して、かっぱ寿司で開示、使用したとして不正競争防止法違反(営業秘密侵害)で逮捕された事件について、初公判が始まっています。

この事件は、かっぱ寿司の元社長の公判と、かっぱ寿司の運営会社であるカッパ・クリエイト社及びかっぱ寿司の元商品部長との公判は分けて行われているようです。公判では、かっぱ寿司の元社長は営業秘密侵害について認めている一方で、運営会社及び商品部長は無罪を主張しているとのことです。

ここで、報道では有名企業の社長が取締役であった前職ライバル企業から営業秘密を不正に持ち出したとして、大きく報道されています。しかしながら、取締役等の役職者が営業秘密を不正に持ち出し、他社に転職したり、独立することはさほど珍しくはありません。従業員に比べて役職者は、営業秘密に対するアクセス権限も多く有しているでしょうし、転職先等で成果を挙げることに対するプレッシャーはより大きいでしょうから、役職者ほど営業秘密を不正に持ち出す可能性が高いことは容易に想像できます。

一方で、本事件で特徴的なことは、営業秘密の開示先企業及びその従業員(元商品部長)も罪に問われていることにあります。開示先企業が罪に問われることは、今回が初めてではありませんが、多くはありません。(過去には2000万円の罰金を科された企業もあります。)
また、開示先企業の従業員(元商品部長)が逮捕されることは過去にありましたが、私の知る限り不起訴となっています。仮に、開示先企業の従業員が有罪となれば、初めてのことかもしれません。


しかしながら、この元部長に関しては非常に気の毒に思います。元部長は、公判において 元社長からの指示であったと証言しているようで、これは偽らざる本心でしょう。
元社長からはま寿司の情報を渡され、この情報に基づいて資料を作成するように指示された場合、元部長はこれを断れるでしょうか。断るとしたら、「元社長の行為は営業秘密侵害であり、刑事告訴の対象となる。」とのように元部長は元社長に進言しなければなりません。果たして、不正競争防止法に詳しくないであろう人が、それを言えるでしょうか。また、言った場合にどのようになるでしょうか。このようなことを部下に言われたら、結果を早期に出したい元社長は不愉快に感じ、元部長を退職に追い込んだかもしれません。すくなくとも、元社長との関係性は悪化することが想像されます。
すなわち、起訴された元部長は実質的に選択肢が無かったとも思われます。仮に、元社長がかっぱ寿司に転職して来なければ、この元部長は逮捕・起訴されることもなく、今も何事もなくかっぱ寿司で働いていたことでしょう。

このようなことは、誰の身にも生じる可能性が有ります。すなわち、上司がライバル企業から転職してきて、このライバル企業の情報を渡された部下となる可能性が誰にでも有るということです。上司の指示通りにライバル企業の情報に基づいて仕事を行うと、営業秘密侵害罪で逮捕される可能性が有ります。一方、上司の指示を断ると、最悪、退職に追い込まれるかもしれません。このような部下は、どちらを選択しても悪い方にしか進めません。

このような事態を防ぐことができるのは、やはり自身が所属する企業しかありません。すなわち、転職してきた者に対して、前職企業等の営業秘密を持ち込ませないということです。これに対しては、例えば、入社時に営業秘密の不正な持ち込みは刑事罰又は民事的責任を負うことを説明しつつ、誓約書にサインを求めることが考えられます。
しかしながら、それでも営業秘密を持ち込む者がいるかもしれません。そのために、従業員自身が営業秘密の不正使用は違法であることを正しく認識し、仮に他社の営業秘密の持ち込みを発見した場合には、法務部門やコンプライアンス部門に報告し、当該営業秘密の使用を防止する枠組みを作るべきでしょう。
これにより、もし、ライバル企業から転職したきた上司が部下にライバル企業の営業秘密を開示した場合には、当該部下が法務部門等に報告することで、当該部下が営業秘密侵害となるような行為を行うことを未然に防止できます。

また、このような報告を受けた法務部門は、当該営業秘密が持ち出された事実を転職者の元所属先企業に報告すべきでしょう。これは、結果的に、自社が当該営業秘密を不正使用していないという主張をし易くなり、自社が刑事及び民事的責任を負うことの防止となり、自社を守ることになります。

営業秘密に対して、自社の営業秘密の漏えい対策を行う企業は多くありますが、他社から自社に営業秘密が持込まれることへの対策を行っている企業は多くないように思えます。
しかしながら、かっぱ寿司のような事態が生じている現在、営業秘密の不正な持ち込みに対する対応を行わないと、自社の従業員が不幸にも逮捕されたり、自社そのものが責任を問われる可能性が生じる可能性が有ります。

弁理士による営業秘密関連情報の発信 

2023年2月19日日曜日

訴訟で提出した営業秘密は不正行為となるのか?

訴訟において原告又は被告が相手方の営業秘密を証拠等として提出する場合があるかもしれません。このような行為は不正競争行為となるのでしょうか。

今回紹介する裁判例(東京地裁令和4年3月25日判決 事件番号:令3(ワ)11861号)は、別件訴訟において、被告が原告との打合せに際して提供を受けた書類を書証(別件書証)として提出した行為が、不正競争防止法上の不正競争行為等であるとして原告が訴訟を提起したものです。
別件書証には、新規開業資金シミュレーションと題する書面(本件シミュレーション)が含まれていました。そして、原告は別件訴訟において、本件シミュレーションの部分に記載された情報が不正競争防止法上の営業秘密に該当するとして、上記部分につき民事訴訟法92条1項の閲覧等制限の申立てを行っていました。
なお、別件訴訟は、原告が被告に対して解決金として70万円を支払う内容の調停が成立しています。

本件訴訟において原告は、下記①~⑤の不正行為であると主張していますが、結論からすると、裁判所はすべて認めませんでした。
①不正競争防止法上の営業秘密の不正な開示
②個人情報保護法上の目的外使用
③第三者提供の制限違反
④プライバシーの侵害
⑤本件業務委託上の守秘義務違反


まず、「①不正競争防止法上の営業秘密の不正な開示」について裁判所は下記のように判断しています。
❝ (1) 前記1(1)のとおり、別件訴訟においては、被告が委託業務を完了したか否かに関わる事情として、被告が原告に対して電気容量増設の必要性について説明したか否か等の当事者双方のやり取りの状況が問題とされていたところ、被告は、原告との一連のやり取りの経緯について主張した上で、原告から電気容量につき情報提供を受けた内容を含むものとして別件書証を提出したものと認められる(提出行為1)。そして、当事者双方のやり取りについて正確性を担保しつつ主張立証する観点からすると、被告が原告から情報提供を受けた内容に関する書証を提出することは、別件訴訟における訴訟活動として一定の必要性や合理性を有するものと認められる。
 (2) 原告は、提出行為1について、不正競争防止法上の営業秘密の不正な開示に当たると主張する。
 しかし、仮に別件書証に含まれる本件シミュレーションが不正競争防止法上の営業秘密に該当したとしても、上記(1)のとおり、提出行為1は、別件訴訟の追行のために行われたものであって、訴訟活動として一定の必要性や合理性が認められるから、被告に不正の利益を得る目的や原告に損害を加える目的があったとは認められない。
したがって、提出行為1が不正競争防止法上の営業秘密の不正な開示に当たるということはできない。❞

上記②,④,⑤についても、裁判所は同様に「別件訴訟の追行のために行われたものである」や「本件訴訟における訴訟活動として一定の必要性や合理性を有するもの」として不正開示を認めませんでした。

なお「③第三者提供の制限違反」について、原告は「被告が提出行為1に際して閲覧等制限の申立てをすべきであったのに、これを行わなかったことが被告の業務上の過失に当たる」とも主張しています。
これについて裁判所は、閲覧制限は、当事者の申立てにより裁判所が決定をすることができるとされるにとどまっており、攻撃防御方法の提出者が閲覧等制限の申立てをすべき義務を負うと解することはできない、として原告の主張を認めませんでした。

以上のような裁判所の判断は、当然かと思います。仮に、訴訟において相手方の営業秘密とされる情報を提出したことが「不正」となると、訴訟そのものを断念しなければならない可能性が生じます。

なお、過去の裁判例では、特許侵害訴訟で原告が提出した証拠(被告の営業秘密)について、原告による当該証拠の入手が「重大な過失」があったとして、特許侵害訴訟の被告が原告となり、特許侵害訴訟の原告を被告として営業秘密の不正取得であるとして提訴したものがありました(知財高裁平成30年1月15日判決 平成29年(ネ)第10076号)。
しかしながら、この訴訟において、原告は特許侵害訴訟で原告の営業秘密を開示した被告の行為に対して「不正な開示」とは主張していません。やはり、この原告も被告が特許侵害訴訟で原告の営業秘密を開示した行為は、不正な行為でないと考えていたからでしょう。

このように、他社の営業秘密であっても、それが自社(自身)の訴訟の追行のために行われたものである場合には、営業秘密の不正開示等とはならない可能性が高いと考えられます。

弁理士による営業秘密関連情報の発信 

2023年2月8日水曜日

QRコードとPDFの知財戦略の共通性

前回までは、Adobeが開発したPDFの知財戦略について考えてみました。

また、以前にはデンソーが開発したQRコードの知財戦略についても知財戦略カスケードダウンに当てはめて考えています。

QRコードとPDFとは、説明するまでもなく、技術分野や市場が全く異なります。
しかしながら、新たなフォーマットの技術を広く普及させるための事業戦略・知財戦略は良く似通っているとも思えます。その類似点について述べてみようと思います。

まず、QRコードとPDFとはシステムとして考えた場合には処理の流れが以下のように同じとも思えます。

<生成装置>
・QRコード:QRコードの生成ソフト
・PDF:PDFファイルの生成ソフト
<生成物>
・QRコード
・PDFファイル
<読取装置>
・QRコードの読取装置
・PDFファイルの閲覧ソフト

QRコードを開発したデンソーは、QRコードそのもの(QRコードの生成)について特許権を有していまいたが、QRコードの生成については無償許諾しています。このため、デンソーは、生成ソフト及びQRコードそのものからは収益を得ることができません。
一方、デンソーは、読取装置に関する特許権を他社にライセンスしたものの、自社が技術的優位性を保つために画像処理技術に関しては秘匿化しています。

また、PDFについて、AdobeはPDFに関する特許権を有していましたが、PDFファイルの閲覧ソフト(Acrobat Reader)をエンドユーザに無償提供しています。このため、AdobeはPDFファイルそのものや閲覧ソフトから収益を得ることができません。
さらに、Adobeは、PDFファイルに関する仕様書であるPDF仕様書を無償公開しているので、他者はPDFファイルの生成ソフトを製造販売することができます。しかしながら、Adobeは他社に対してPDF仕様書に準拠することを要求しており、PDF仕様書を超えた優れた機能はAdobeしか実施できないようにすることで、自社の技術的優位性を保っています。


このように、QRコード、PDF共に、エンドユーザが使用して最も多量に生成されるQRコードとPDFファイルに対して基本的に権利行使の対象としておらず、これらから収益を得ていません。
一方で、QRコード、PDF共に、自社が収益を挙げることができる技術が何であるかを見定め、そこに知財を活かしています。すなわち、QRコードでは優れた画像認識機能を必要とする読取装置、PDFではPDFファイルの生成や編集等の様々な機能が付加される生成ソフトで収益を得ています。

また、QRコードは、読取装置に関する特許権の有償ライセンスを行うと共にノウハウの開示を行っています。これは、QRコードは画像認識により再現性高く読み取る必要があるものの、企業によっては読み取りに関する技術が不十分な可能性があります。このため、ノウハウ開示は、他社の読取装置の性能や品質が最低限に確保できるようにするという目的があります。仮に、QRコードを正しく読み取れないような他社製品が市場に出回ると、QRコードという技術の信頼性が大きく損なわれ、QRコードの普及を阻害することになるでしょう。

一方で、AdobeはPDF仕様書を無償(ライセンスフリー)で開示していますが、QRコードのようにノウハウの提供までは行っていないようです。PDF仕様書には、十分な情報開示がなされており、他社もPDF仕様書に基づいてPDF作成ソフトを製造することで当然に再現性の高くPDFを作成できるということなのでしょう。そもそも、PDF仕様書は無償開示されているので、さらにAdobeが他社にノウハウ提供を行うことは考えられないでしょう。

ここで、QRコードもPDFのようにQRコードの読取装置に関する仕様書を無償開示する一方で、仕様書に準拠しない読取装置を製造販売した他社に権利行使を行うという方策(知財戦略・戦術)を採用したらどうなっていたでしょうか。
仕様書の無償開放を行うと、上記のように他社に対してノウハウの提供を行うことを前提としません。このため、QRコードの開発当時である1990年代は今ほど画像認識技術が一般的ではないため、性能や品質が劣る読取装置が市場に出回る可能性が高いのではないでしょうか。従って、ノウハウの提供を行うという前提に立つと、QRコードの読取装置の特許権に関して有償でライセンスすることは、非常に理にかなっているように思えます。

しかしながら、仮に現在のように、ある程度高いレベルの画像認識技術を比較的容易に取得できる環境、さらにはスマホ等を用いることで取得した画像を認識できる環境においては、仕様書に読取装置の技術内容を記載することで特段のノウハウ提供をおこなうことなく、他社は性能や品質が十分な読取装置を製造できるのではないでしょうか。
すなわち、当該技術を取り巻く環境(又はビジネス環境)に応じても、当然に知財戦略・戦術は変わってくるということになります。すなわち、技術環境やビジネス環境を見誤ると、適切な知財戦略・戦術を選択できない可能性があります。

以上のように、QRコードやPDFと同様の新たなフォーマットの技術を開発した場合に、当該技術を普及させるためには、これらの知財戦略・戦術が参考になるかと思います。

弁理士による営業秘密関連情報の発信 

2023年1月30日月曜日

PDFの普及から考える知財戦略(2)

今回は前回の続きであるPDFの普及に関する知財戦略・戦術について考えます。

PDFの普及に関する事業戦略・戦術は以下のようなものでした。

<事業目的>
PDF市場を大きくする。
<事業戦略>
(1)誰もがPDFを無料で閲覧可能とする。
(2)PDF作成ソフトを他社も開発可能とし、他社によるPDF市場参入を促す。
(3)自社製のPDF作成ソフトの販売で利益を得る。
<事業戦術>
(1)自社開発ソフトであるAcrobat Readerを無償提供。
(2)PDF仕様書を無償で公開する。
(3)PDF市場に参入する他社よりも高機能のPDF作成ソフトを販売。

上記事業戦術における「(1)自社開発ソフトであるAcrobat Readerを無償提供。」については、知財戦略というよりもAcrobatの販売戦略の色合いが強いとも思え、知財戦略の立案対象ではないとします。
そこで、知財戦略としては「(2)PDF仕様書を無償で公開する。」及び「(3)PDF市場に参入する他社よりも高機能のPDF作成ソフトを販売。」に対応するもの考えます。すなわち、事業戦術の(2),(3)は、知財なくして実現できないものであり、知財の使い方を誤ったら自社が利益を挙げることができなくなるかもしれません。

事業戦術(2)と(3)とは、PDF仕様書を無償公開しつつ、そのPDF作成ソフトで利益を挙げるという、表裏一体ともいえるものです。そこで、事業戦術(2)と(3)とを組み合わせたものを知財目的「PDF仕様書を無償公開しつつ、高機能のPDF作成ソフトを販売。」とし、知財戦略・戦術を以下のように考えます。

<知財目的>
PDF仕様書を無償公開しつつ、高機能のPDF作成ソフトを販売。
<知財戦略>
PDF仕様書の技術範囲に係る特許権や著作権を無償開放しつつ、PDF仕様書には自社のPDF作成ソフトに実装する高機能は記載しない。
<知財戦術>
(1)PDFに関する特許権(PDFそのものの機能、PDF作成ソフトの機能)を取得し続ける。
(2)プログラムの著作権の管理。
(3)自社の優位性を保つための高機能技術に係る権利は無償開放しない。
(4)PDF仕様書に準拠しない技術を開発した他社には権利行使。
(5)新たな技術を追加してPDF仕様書を更新する。
上記のように知財戦略は、「PDF仕様書の技術範囲に係る特許権や著作権を無償開放しつつ、PDF仕様書には自社のPDF作成ソフトに実装する高機能は記載しない。」となります。
ここで、PDF仕様書を無償公開としても、その技術範囲に係る特許権や著作権も無償開放としなければ、他社はPDF作成ソフトの製造に躊躇することとなります。そこで、知財戦略としては、上記特許権や著作権の無償開放となります。なお、著作権とは、ソフトウェアのプログラムになります。
その一方で、PDF作成ソフトの高機能については、PDF仕様書には含まないようにします。この高機能は、Adobeにとっての利益の源泉となるため、他社による実施は許諾できません。

次に、このような知財戦略に基づく知財戦術としては、まず「(1)PDFに関する特許権を取得し続ける。」は必要かと思います。特許の対象はプログラムなので、特許出願しなければ他社による模倣を防止できるかもしれません。しかしながら、知財戦術の「(5)PDF仕様書の更新」を考慮に入れると、更新する仕様書には新しい技術を記載することとなるため、仮に特許権を取得しないと知財戦術「(4)PDF仕様書に準拠しない技術を開発した他社には権利行使。」ができないこととなります。
また、PDFの開発を進めることで必然的に関連する著作権も得ることとなります。そして、知財戦術(4)を行うためには、自社がどのような著作権を有しているかを管理する必要があります。これが知財戦術の「(2)プログラムの著作権の管理。」となります。

また、知財戦術として「(3)自社の優位性を保つための高機能技術に係る権利は無償開放しない。」が挙げられます。これは、自社のPDF作成ソフトの優位性を保つために必要なこととなります。従って、この知財戦術(3)は、非常に重要な判断を要します。この判断を誤るり、高機能技術をPDF仕様書に加えてしまうと、自社利益の源泉となる技術を他社に与えることとなります。その一方で、PDF仕様書の更新の際に、PDF仕様書に加える新たな技術を出し渋ると、他社のPDF作成ソフトが陳腐化し過ぎ、PDFに替わる新たなフォーマットのドキュメントファイルの台頭を許すことになりかねません。

また、知財戦術として「(4)PDF仕様書に準拠しない技術を開発した他社には権利行使。」が挙げられます。PDF仕様書の公開と共にこの条件を加味しないと、他社はAdobeよりも高機能なPDF作成ソフトを製造販売する可能性が有ります。この方策があるからこそ、他社はPDF市場に参入するものの、PDFに関連する新しい技術開発ができずに、常にAdobeよりも劣る機能しか実装できないこととなります。仮に方策が無ければ、Adobeは他社に対する優位性を保つことが難しくなるでしょう。

さらに、知財戦術として「(5)新たな技術を追加してPDF仕様書を更新する。」が挙げられます。具体的には、Wikipediaの「Portable Document Format」に記載があるように、PDF仕様書は複数回の更新が行われており、その都度、新機能が追加されています。
これにより、他社は、Adobeの製品よりも劣るものの、PDF仕様書が更新されると新たな機能を自社の製品に追加することができ、自社製品の陳腐化を防止できます。そして、それがPDFそのものの陳腐化を防止し、新たなフォーマットのドキュメントファイルの台頭を防止します。

以上のように、PDFを普及させつつ、Adobeが利益を挙げるための事業戦略及び知財戦略は、自社開発技術のオープン・クローズ戦略の良い例であり、このような戦略は、新たなフォーマットの技術を開発した場合に、当該フォーマットの普及とそこから利益を挙げるための手法の参考になると思います。

弁理士による営業秘密関連情報の発信