2023年1月23日月曜日

PDFの普及から考える知財戦略(1)

AdobeのPDF(Portable Document Format)は説明するまでもなく世界中に広く普及しています。このPDFファイルを閲覧するためには、専用のソフトウェアが必要ですが、AdobeはAcrobat Readerを無償提供することで、誰でもPDFファイルを閲覧可能としています。
また、Adobeは、PDFに関する特許を多数取得し、現在ではPDFの仕様はISOの規格になっています。
では、AdobeはこのPDFをどのような戦略によって広く普及させたのでしょうか。
今回も知財戦略カスケードダウンに当てはめて考えてみます。

まず、PDF普及の概要については、以下のようなものです。なお、上記のようにPDFに係る技術は現在では規格化されているので、下記のPDF普及の概要は普及戦略の初期段階ともいえるでしょう。

まず、Adobeは、PDF作成ソフトとしてAcrobatを販売しました。また、Adobeは、PDF閲覧ソフトとしてAcrobat Readerを無償提供することで、誰でもPDFファイルを閲覧可能としています。
Adobeは、AcrobatやAcrobat Readerを市場に投入する一方で、PDF仕様書を公開しました。また、PDFの作成に係るAdobeの特許権は無償許諾されます。これにより、Adobe以外の他社もPDF作成ソフトを自社で開発して販売したり、PDF作成機能を自社のソフトウェアに組み込むことができます。
このような方策により、PDF市場が大きくなることが期待でき、実際に大きくなりました。

しかしながら、誰でもPDF作成ソフトを開発可能とすると、Adobeよりも優れたものを他社が開発する可能性があります。そうすると、PDF市場におけるAdobeの優位性が失われる可能性があります。
そこで、Adobeは自社の優位性を保つために、他社によるPDF作成ソフトの開発に対して「仕様書に準拠しなければならない」という条件を設けることで、他社が独自技術を開発することを禁じたようです。仮に、他社が独自技術を盛り込んだPDF作成ソフトを製品化すると、Adobeは特許侵害とするのでしょう。
さらに、プログラムの著作権も無償開放する一方で、他社による当該著作権に係る技術を用いた独自技術の開発を禁じていたようです。

以上のことを知財戦略カスケードダウンに当てはめます。
まず、事業戦略ですが、下記のように考えます。
<事業目的>
PDF市場を大きくする。
<事業戦略>
(1)誰もがPDFを無料で閲覧可能とする。
(2)PDF作成ソフトを他社も開発可能とし、他社によるPDF市場参入を促す。
(3)自社製のPDF作成ソフトの販売で利益を得る。
<事業戦術>
(1)自社開発ソフトであるAcrobat Readerを無償提供。
(2)PDF仕様書を無償で公開する。
(3)PDF市場に参入する他社よりも高機能のPDF作成ソフトを販売。

事業目的は、「PDF市場を大きくする。」、換言すると、PDFを世界中に普及させることになります。

この事業目的を達成するための事業戦略は、上記のように(1)~(3)です。
事業戦略の「(1)誰もがPDFを無料で閲覧可能とする。」は、実際にPDFを使用するエンドユーザを意識したものになります。すなわち、PDFの閲覧ソフトが有料であると、エンドユーザはPDFを使用する意欲が必然的に低くなるでしょう。一方で、PDFを無料で閲覧可能とすると、エンドユーザはPDFの閲覧に対する抵抗感は非常に低くなるでしょう。
この事業戦略(1)に対応する事業戦術が、「(1)自社開発ソフトであるAcrobat Readerを無償提供。」となります。すなわち、閲覧ソフトの無償提供は、他社に頼ることは難しいため、まずは自社開発ソフトを無償提供するということになります。

次に、事業戦略の「(2)PDF作成ソフトを他社も開発可能とし、他社によるPDF市場参入を促す。」ですが、これはPDFの事業戦略の一番の特徴です。PDFを広く普及させることは、自社だけでなく他社も巻き込んだほうが実現し易いでしょう。
しかしながら、それは他社が容易に市場参入可能とする環境整備が必要です。その環境整備が事業戦術の「(2)PDF仕様書を無償で公開する。」です。他社は、Adobeが提供するPDF仕様書に基づいてPDF作成ソフトを制作すればよく、開発コストは当然低くなり、PDF市場への参入も容易となるでしょう。

上記(1),(2)のような事業戦略・戦術によってPDF市場の拡大を図りますが、AdobeはどのようにしてPDF市場から利益を挙げるのでしょうか。それが事業戦略の「(3)自社製のPDF作成ソフトの販売で利益を得る。」となります。
ここで、上記(2)のように事業戦略・戦術としてPDF仕様書を無償公開しているので、他社は安価にPDF作成ソフトを制作でき、場合によっては自社の既存ソフトの機能の一つとしてPDF作成機能を組み込むこともできます(マイクロソフトのWordには現在機能の一つとしてPDF化があります。)。すなわち、他社はエンドユーザに対して低額又は実質的に無償でPDF作成ソフトを市場に投入してエンドユーザに提供できます。
このため、Adobeは、低価格のPDF作成ソフトを市場に投入して利益を得ることは現実的ではないでしょう。
そこで、この事業戦略(3)に対応する事業戦術は、「(3)PDF市場に参入する他社よりも高機能のPDF作成ソフトを販売。」となります。高機能化により他社のPDF作成ソフトと差別化し、より高い利益を求めるという事業戦術です。

次回は、このようなPDFの普及に対する事業戦術に対応する知財戦略・戦術について考えます。

弁理士による営業秘密関連情報の発信 

2023年1月15日日曜日

インテルのMPU普及から考える知財戦略

パソコンのMPU(CPU)メーカーとして最も有名なメーカーはインテルでしょう。インテルが何を製造しているのか知らなくても、「Intel inside」というキャッチコピーを聞いたことがない人は殆どいないのではないでしょうか。
そのインテルのMPUは、パソコン本体の製造メーカーにかかわらず、パソコンに搭載されて世界中に普及しています。

インテルによるMPUの普及戦略は、オープン・クローズ戦略として紹介及び解説されています。そこで、インテルによるMPUの普及戦略を知財戦略カスケードダウンに当てはめて考えてみます。
なお、本ブログではインテルの戦略として、小川紘一 著「オープン&クローズ戦略 日本企業再興の条件」、立本博文 著「PCのバス・アーキテクチャの変遷と競争優位―なぜ Intel は、プラットフォーム・リーダシップを獲得できたか―」を参照しています。


まず、インテルは、主にパソコンメーカーに自社製MPUを個別に搭載してもらうことで、MPUから売り上げを得ていました。
しかしながら、そのような状況では、インテルがより性能の高い新たなMPUを開発しても、パソコンメーカーが新たなMPUを搭載したパソコンを製造販売するまでに時間を要することとなり、インテルとしてはビジネスが思ったように進まないという課題があったようです。また、当然、競合他社性のMPUとの開発競争もあり、インテル社製のMPUが市場で優位に立てる環境を構築する必要がありました。

このため、インテルは自社製のMPUを搭載したマザーボードを製造販売することで、自社製のMPUを搭載したパソコンの製造を容易にし、それにより自社製のMPUを普及させようとしました。しかしながら、インテルによるマザーボードの製造数は市場規模からすると小さく、自社製のマザーボードによって自社製のMPUを広く普及させることは困難でした。
そこで、マザーボードを多く安価に製造していたメーカーが台湾メーカーであったことから、インテルは台湾メーカーに自社製のMPUを搭載したマザーボードを製造させて自社製のMPUをより広く普及させるという戦略を取りました。

このような経緯から、インテルが最新の自社製MPUを広く普及させるという事業目的に対して選択した事業戦略・戦術は下記のようになります。

<事業目的>
最新の自社製MPUを広く普及させる。
<事業戦略>
最新のMPUを搭載したマザーボードを市場に供給
<事業戦術>
台湾メーカにマザーボードを安価に製造させ、マザーボードに自社製MPUを搭載することで、MPUの販売量を増加させる。

すなわち、インテルが他社に比べて優れたMPUを開発すると、早期に台湾メーカーがこのMPUを搭載したマザーボードを安価に製造販売します。
これにより、パソコンメーカーはこのマザーボードを用いた高性能なパソコンを次々と市場投入することになるので、マザーボードの販売数が増加し、台湾メーカーは売り上げを増加させることができます。
インテルは、台湾メーカーのマザーボードの販売数が増加すると、当然に自社製のMPUの販売数も増加することとなり、MPUによるインテルの売り上げも増加することとなります。
そして、インテルによるこの事業戦略は実際に成功を納めています。


次に、インテルによる上記事業戦略を実現するための知財戦略についてです。
この知財目的・戦略・戦術は下記のようになります。

<知財目的>
自社製MPUを搭載したマザーボードを台湾メーカに安価に製造させる。
<知財戦略>
自社製MPUに対応した技術(特許権やノウハウ)をマザーボードメーカに提供。
<知財戦術>
・提供するノウハウは、放熱技術やノイズ抑制技術。
・ライセンスする特許はローカルバスに関する特許。しかし、特許権に係る技術の改版については認めない。
・MPUの技術は秘匿化。
・マザーボードの外部インタフェース等の標準化。

インテルは、自社製MPUを搭載したマザーボードを台湾メーカーに安価に製造させるために、台湾メーカーに特許権のライセンスを含む技術供与や提供することを知財戦略としました。ライセンスされた特許権は、ローカルバスに関するもの、提供されたノウハウは、放熱技術やノイズ抑制技術のようです。
台湾メーカーはインテルからの特許権やノウハウ等の技術提供により、インテル製のMPUを搭載するための技術開発を自社で行う必要がなくなり、インテル製のMPUを搭載することを前提としたマザーボードを安価に製造できるようになります。
また、インテルは、独自又は他社と協力して、マザーボードの外部インタフェース等を標準化しました。これにより、パソコンのコモディティ化が進み、その結果、パソコンそのものが安価になって普及することになり、さらにマザーボードの販売数を増加させることができます。
一方で、インテルはMPUの技術は秘匿化することで、他のメーカーにインテル製のMPUと同様のMPUを製造させることを防止します。
このように、インテルは、自社製MPUをマザーボードに搭載するための技術をオープン化する一方で、MPUそのものについてはクローズ化するという戦略を取っています。

さらに、インテルは、自社製MPUに対応するローカルバスの特許権をライセンスするものの、その改版については認めませんでした。これにより、仮にインテル以外のメーカーのMPUをマザーボードに搭載しようとすると、当該特許権に係る技術を改良する必要があるため、インテル製のMPU以外を搭載できなくなります。
実際に、インテルはライセンス契約の無効を主張して訴訟を台湾VIA Technologies社に行うと共に、VIA社との取引を停止しました。VIA社が、インテルが用いたバス仕様のDRAMとは異なるバス仕様のDRAMを使用したマザーボードを製造したためです。

このように、特許権をライセンスするもののその改版を認めないことは、インテルに限らず他社でも行われています。例えば、デンソーによるQRコードの無償ライセンスやAdobeによるPDFフォーマットの無償ライセンスです。
このような特許権をライセンスするものの改版を認めないことにより、特許権を有している自社よりも優れた技術開発を抑制し、自社優位性を保つということが可能となります。

オープン・クローズ戦略は、自社だけでは自社製品を広く普及させることが困難な場合に、他社の力も借りて普及を実現させることを目的として採用させる戦略です。
このため、オープン化した技術を採用する他社も利益を挙げて貰う必要があります。
その一方で、この他社が自社のビジネスを脅かす存在となり得る可能性もあります。このため、他社の事業活動が自社を脅かすことを抑制するための方策もセットで構築する必要があります。

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2022年12月31日土曜日

特許出願の公開前取り下げと秘匿化

特許出願をすると1年6か月後に公開されます。
しかしながら、特許出願しても公開前に取り下げることで、自社開発技術の秘匿化を保つという知財戦術をとる会社もあるようです。

その理由の一つとして、特許出願した自社の技術開発スピードが他社よりも十分に先行しており、特許化によるメリットよりも公開リスクの方が大きい場合でしょうか。
このような場合には、特許出願を取り下げた直後に再び特許出願を行います。このような出願と取り下げとを、他社開発技術が自社開発技術に近くなるまで繰り返し、他社開発技術が自社開発技術に近くなったと思われるタイミングで当該特許出願を取り下げることなく、審査請求します。
これにより、他社に自社開発技術を知られることなく、かつ他社よりも先んじて特許取得を可能とします。
とはいえ、他社開発技術がどの程度まで進んでいるのかを知ることは難しいため、さほど現実的な知財戦術ではないと思います。

異なる知財戦術として、公開前の特許出願の取り下げと早期審査とをセットにすることが考えられます。
特許出願とほぼ同時に早期審査を行い、特許査定を得られる可能性が低いようであれば、公開される前に当該特許出願を取り下げることで他社に自社開発技術を知られることを防止するというものです。
これは実際に行っている企業もあるようで、このような知財戦術は有効かと思います。


ここで、気になる点は、特許査定を得られないのであれば、営業秘密でいうところの有用性又は非公知性もないのではないかということです。
仮に拒絶理由が新規性違反であり、それを覆すことができないのであれば、非公知性は喪失しているのでで、当該特許出願に係る技術を営業秘密とすることはできません。

しかしながら、拒絶理由が進歩性違反である場合には、必ずしも営業秘密の有用性が無いとは言えません。
営業秘密の有用性の判断として、特許の進歩性と同様の判断を行った裁判例がいくつもありますが、近年の刑事事件の裁判例(横浜地裁令和3年7月7日判決 平30(わ)1931号 ・ 平31(わ)57号)として下記のように裁判所が判断したものがあります。
❝不正競争防止法が営業秘密を保護する趣旨は,不正な競争を防止し,競争秩序を維持するため,正当に保有する情報によって占め得る競争上の有利な地位を保護することにあり,進歩性のある特別な情報を保護することにあるとはいえないから,当該情報が有用な技術上の情報といえるためには,必ずしもそれが「予想外の特別に優れた作用効果」を生じさせるものである必要はないというべきである(そもそも何をもって「予想外」「特別に優れた」というのかが曖昧であり,その意味内容によっては,不正競争防止法が所期する営業秘密保護の範囲を不当に制限する可能性がある・・・)。❞
このような裁判例があることを鑑みると、特許の進歩性がないと判断された技術情報が営業秘密の有用性もないと判断されない可能性もあります。

ここで注意が必要なことは、「特許出願の取り下げ=秘密管理性」ではないことです。取り下げの目的は特許出願に係る技術を秘匿化したいというものですが、取り下げ自体は秘密管理意思を示すものとはみなされない可能性があります。
このため、取り下げた特許出願に係る技術は、適切に秘密管理を行う必要があります。特許出願の請求の範囲及び明細書等をそのまま秘密管理してもよいかと思いますが、明細書には公知の技術も多数書かれています。また、特許請求の範囲も場合によっては公知の技術がトップクレームとなっている場合もあるでしょう。このため、どの技術が秘密管理の対象となっているのかを請求の範囲や明細書中に明示した方が秘密管理としてはより万全かと思います。

公知の技術情報と非公知の技術情報とが混ざった状態で秘密管理されていると、秘密管理の対象となっている情報を従業員等が認識できないとして、非公知の技術情報の秘密管理性までもが否定される可能性があるためです。

弁理士による営業秘密関連情報の発信